ホームランと言えば野球の一番の魅力と言えるかも知れません。野球賭けにぴったりのブックメーカーで遊んでいる際に、一本のホームランで一喜一憂したこともあるでしょう。プロ野球の年間本塁打記録は2013年のバレンティンの60本。それまでの記録だった王貞治、タフィ・ローズ、アレックス・カブレラの55本を大きく上回る大記録でした。
今回はそんなバレンティンの60本はいかにして生まれたのか振り返っていきます。
2013年バレンティンの60本の軌跡
それではバレンティンの60本、2013年の大記録を振り返っていきましょう。
実は開幕は出遅れていた
2013年はWBCが行われた年です。バレンティンもオランダ代表として出場していました。ところがその大会中、バレンティンは負傷し離脱してしまいます。結果プロ野球の開幕時は二軍スタートで出遅れてしまいます。
一時期10本の差をつけられていた
開幕から10試合以上経過し、やっと一軍に復帰したバレンティン。少しずつ本来の打撃を取り戻していきますが、この年は中日ドラゴンズのトニ・ブランコが好調で、一時期バレンティンとは本塁打数で10本差をつけていました。
このように出遅れたことで、この時期には誰も本塁打の日本記録はおろか、本塁打王になることすら予想していた人はほとんどいなかったのではないでしょうか。
夏ごろから打棒が爆発!
しかしこの年のバレンティンは凄かったのです。夏ごろから一気に調子を上げていきます。6月には17試合で打率3割7分7厘、11本塁打21打点と月間三冠王になります。さらに8月には18本塁打で月間本塁打数の日本記録を樹立します。この頃には早くも50本塁打の大台に乗せていて、いつ記録を塗り替えるのか、何本まで打つのかに注目が集まっていました。
日本新記録、大記録のバレンティンの60本達成
50本を達成したあたりから敬遠や厳しい内角攻めにあうことも増え、少し本塁打のペースは落ちてきます。それでも9月11日の広島戦で日本タイ記録の55号を打ちます。シーズン122試合目での到達は史上最速でした。その後9月15日の阪神戦で56号、57号と連続で本塁打を放ち日本新記録を達成、最終的には60号まで記録を伸ばしました。
バレンティンの60本はなぜ生まれたか?
このように出遅れながらその後のものすごい勢いで本塁打を量産、最終的には60本も打ったバレンティン。なぜこのような大記録が達成できたのでしょうか。
バレンティンが日本球界に合っていた
まず大前提としてバレンティンが凄かった、バレンティンが日本球界に合っていたという理由が挙げられます。バレンティンは2011年と2012年にも本塁打王を獲得していますが、ヤクルトスワローズは当初「肩が強くて状況に合わせるバッティングができる」という評価でバレンティンを獲得しています。まさかその後60本もの本塁打を打つとは夢にも思っていなかったのではないでしょうか。
60本を打った2013年以外にも7シーズンで年間30本塁打を記録しており、やはりバレンティン自身の能力の高さや日本球界に合っていたというのは間違いないところでしょう。
統一球の反発力が上がり飛ぶボールになった
2013年に使用されたボールはいわゆる「飛ぶボール」とも言われています。統一球問題で2011年~2012年は本塁打が少なく、打者の全体的な成績が2013年は良くなっています。このことがバレンティンの60本を生んだ要因の一つとも考えられているようです。
しかし全体的に打者の成績が良いとはいえ、バレンティンの成績の伸びは並のものではないですね。
チームが最下位で気楽に打てた?
2013年はバレンティンが驚異的な記録を打ち立てる一方、チームであるヤクルトは最下位に沈んでいました。実は王貞治の55本に挑んだ選手がいるチームは、必ずリーグ優勝をしていたのです。1985年バースの阪神、2001年ローズの近鉄、2002年カブレラの西武。
チームが残念な成績であった分、気楽に打てたという要素が加わり最終的に60本という数字を残せたという可能性もあるかも知れません。
まとめ
今回は2013年の大記録、バレンティンの60本について振り返ってきました。確かにラッキーな要素もあったのかも知れませんが、普通の選手ではできないことですし、大記録であることは間違いありません。
侍ジャパンで活躍したヤクルトの村上宗隆選手が2022年に56本を打ち、再び脚光を浴びたバレンティンの60本。今後どんな選手が彼の記録に挑むのか、ぜひとも注目していきましょう。