朝ドラ『虎に翼』のモデルは女性弁護士!華麗なプロフィールまとめ

朝ドラ『虎に翼』のモデルは女性弁護士!華麗なプロフィールまとめ 気になる人物

NHK朝の連続テレビ小説、2024年前期ドラマは「虎に翼」が放送されています。この「虎に翼」は、日本初の弁護士の女性と、その仲間たちとの波乱万丈の物語をフィクションとして描いています。虎に翼の主人公、猪爪寅子のモデルは日本初の女性弁護士の1人である三淵嘉子さんです。この虎に翼のモデルとなった三淵嘉子さんとは、どんな人なのでしょうか?プロフィールをまとめてみました。

虎に翼のモデルは三淵嘉子さん!

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朝の連続ドラマ小説「虎に翼」のモデルとなったのは、日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事となった三淵嘉子さんです。三淵嘉子さんとはどのような人物だったのでしょうか。まずは簡単にプロフィールを紹介します。

三淵嘉子 プロフィール

名前:三淵 嘉子(みぶち  よしこ)

生誕:1914年11月13日

死没:1984年5月28日(69歳)

出身小学校:青山師範学校附属小学校

出身女学校:東京女子高等師範学校附属高等女学校

出身大学:明治大学専門部女子部法科→明治大学法学部

虎に翼のモデル「三淵嘉子」さんの生涯!

当時の日本において、女性が法律を学ぶことは決して容易いことではなかったはずです。そんな中、三淵嘉子さんはどのようにして法律を学び、女性初の弁護士・判事となっていったのでしょうか?その生涯をまとめてみました。

初の女性弁護士誕生!

三淵嘉子さんは1914年、シンガポールにて台湾銀行勤務の武藤貞夫とノブの長女として生まれました。

女学校卒業時に父の影響を受け、法律を学ぶことを決意。法学に唯一女子の受け入れを行っていた明治大学専門部女子部法科へ入学、1935年には明治大学法学部へ入学します。

1938年に大学を卒業、高等試験司法科試験に合格。1940年に第二東京弁護士会に登録し、同じ大学の同窓である中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士が誕生しました。

初の女性判事が誕生するまで!

1941年、武藤家の書生であった和田芳夫(招集先で発病し帰国後戦病死)と結婚、1943年に長男を出産。1944年には明治女子専門学校助教授となりますが、1945年に長男や弟の妻子とともに福島県へ疎開し、後に両親が住む川崎市へ移ります。

戦前前は女性が判事、検事へ就けなかったため、終戦の1947年に裁判官採用願いを提出。司法省民事局局付を経て、最高裁判所発足に伴い最高裁民事局局付となり、1948年には最高裁民事部事務官、家庭局局付に就任します。

1949年に東京地裁判事補となり、1952年に名古屋地方裁判所で初の女性判事となりました。

女性判事となってからの人生は?

1956年、初代最高裁長官「三淵忠彦」の息子である三淵乾太郎と再婚し、三淵性となり目黒で生活する事となります。

東京地裁判事となり、「原爆裁判(広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えたもの)」を担当し、判決は請求棄却となりますが、「原爆投下は国際法違反」と明言しています。

1962年には東京家庭裁判所判事となり、1972年には新潟家庭裁判所長に任命され、女性初の家庭裁判所所長となります。また、1972年までは明治大学短期大学で教壇にも立っています。

1973年には浦和、1978年からは横浜で所長を務め、1979年に退官。1980年には再び弁護士となる他、日本婦人法律家協会会長、労働省男女平等問題専門家会議座長も務めるなど、様々な分野で活躍しました。

1984年、69歳の時に骨肉腫で死去し、従三位に叙せられて勲二等瑞宝章を授けられています。

まとめ

今回はNHK朝の連続ドラマ「虎に翼」のモデルと言われる三淵嘉子さんのプロフィールについて調査しました。戦前戦後にかけて、女性の地位も低く、全てにおいて男性社会とも言える時代に、女性の社会進出の道を切り開き続けた先駆者だという事がわかりました。朝の連続ドラマ「虎に翼」はあくまでもフィクションですが、モデルとなった三淵嘉子さんの人生が垣間見える気がします。「虎に翼」は2024年9月まで放送されますので、これからの物語の展開を楽しみにしていたいと思います。

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